かつてキリシタンに妨害を受け廃寺となった長崎の『深崇寺』に行ってみた
前回に続き、長崎県長崎市の市街地から見て山手側には寺町という寺が群立するエリアにやってきました。
そう
そこには多くの観光客が訪れる「興福寺」という唐寺もありますが、それ以外の寺院に訪れる観光客は殆どおりません。
しかしながら、長崎の風俗(エロい方じゃなく、文化とかそいうの)を観る事出来る貴重な場所となっております。
本日は、閻魔大王と奪衣婆が祀られる長崎四国第四十七番霊場『三宝寺』をご案内致します。
▼アクセス
「三宝寺」へは、JR長崎駅前から出ているチンチン電車(路面電車)の長崎電軌2、3、4、5系統のいずれかに乗り、「めがね橋」もしくは「市民会館」で下車し、山手方面に進んだ「中島川」を越えた辺りに広がる寺町の中にあります。
※この寺院のある場所へは、日本初の唐寺である「興福寺」もしくは、坂本龍馬が起こした日本初のカンパニー「亀山社中」の跡地へのついでに訪れる方が殆どだと思います。
住所:〒850-0872 長崎県長崎市寺町6−1
▼寺町
寺町エリアに知らずに足を踏み入れると石垣が積み重なった、さながら城の様な風景が広がっております。
「元は城だったのかな??」と疑問になったので、先に訪れた興福寺の社務所で聞いてみました。
「長崎では昔から大火が頻繁に発生しており、江戸時代には街全体を焼失させるようなものまで発生してしまっておりました。
特に長崎大火と呼ばれる火災は深刻で、再建にも多くの歳月を要したそうです。
その復興を行う際に町割りを見直す一環で街中にあった寺院を山手に集めたのが本日に続く寺町の始まりとなっております。
この石垣群は、長崎に大火が発生した際に、防火壁の意味合いも持たせて石垣が連なった構造をもったそうです。」
石垣一つにも意味があり、歴史がありますね。
▼浄土真宗本願寺派 東林山深崇寺
立派な山門のある『深崇寺』に到着しました。
元々この寺院は東禅寺という禅寺でしたが、秀吉が天下を治めていた安土桃山時代の慶長元年(1596年)頃にキリシタン信者による弾圧を受けて廃寺になってしまいました。
その後、この町にやってきた肥前唐津出身の僧・浄慶が信心深く布教活動を行っていた所、長崎奉行であった長谷川権六藤正に認められ廃寺となっていた東禅寺を譲り受け、西本願寺の末寺として寺名『東林山深崇寺』を改名し、現在に至ります。
▼さいごに
以上で、かつてキリシタンに妨害を受け廃寺となった長崎の『深崇寺』のご案内となります。
今では、禅寺時代の名残を観る事は出来ませんが、歴史を感じる事の出来る寺院となっておりました。
皆様も訪れてみては如何でしょうか。
ご精読ありがとうございました。
▼最寄りの宿
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